淡々としたファンタジー

フィンランド
ヘルシンキ 2012
ヘルシンキ 2012

「アキ・カウリスマキの映画ってどんな感じ?」と、質問されたときは「淡々としたファンタジーの映画だよ」と答えている。「淡々とした」というのは、例えば小津安二郎の映画についてよく用いられる形容詞かもしれない。『東京物語』では、「淡々と」老夫婦の姿が映しだされ、原節子との会話にじんわり感動する。

一方、まったく対照的だが、先日ブラッド・ピットとアンジェリーナ・ジョリーの『Mr.&Mrs. スミス 』という映画を観た。こちらも夫婦(ただし、若いアメリカ人)が主人公の話だが、ある意味「淡々と」はしていない。でも「想像を絶する戦闘がエスカレート」するエンターテイメントとして、すごく面白かった。

ところで、消しゴム版画家のナンシー関がアキ・カウリスマキの「淡々」について、次のように書いていた。

マッチエ場でベルトコンベアに乗って流れてくるマッチを監視しているところと、車にはねられるとか毒を盛るといったあからさまにドラマチックな意味を持つところを、全く同じ扱いで淡々と描いている。

ナンシー関『何を根拠に』世界文化社

「毒を盛る」とか、かなり不穏当ではあるが、それでも日々、些細な事でイライラしたり、どうでもいいことに振り回されてしまうと「淡々としている」って意外と難しいことだと感じる。それは本来の自分に戻ることができないからなのか。会社とか家庭とか学校で社会的な役割を演じなければならない、と思い込んでしまうのかもしれない。スイスの建築家、ペーター・ツムトアが、こんなことを言っている。

その夜、ある女性の友人と、アキ・カウリスマキ監督の最新作についておしゃべりする。私はカウリスマキ監督が自作の映画の登場人物にしめす共感と尊敬をすばらしいと思う。カウリスマキは役者を監督のあやつり人形にしない。コンセプトを表現するために役者を利用するのではなく、むしろ役者を映画のなかに置いて、その尊厳、その秘密を私たちに感じ取らせる。カウリスマキの映画術は彼の映画に温かみの表現を与えている、と同僚の女性に話しながら、いまになって、けさテープに向かってこう言えばよかったのだ、と気づく。カウリスマキが映画を作るように家を建てることができたら、どんなにかすばらしいだろうに、と。

ペーター・ツムトア『建築を考える』(みすず書房)鈴木仁子 訳

「カウリスマキが映画を作るように日々を過ごすことができたら、どんなにかすばらしいだろうに」と、自分だったら言いたい。ただ現実的には、それがなかなかできないからカウリスマキの映画がファンタジーとして成立しているし、だからこそカウリスマキの映画が必要とされている、とも言える。

アキ・カウリスマキの映画では、役者の会話は「話し言葉」ではなく「書き言葉≒ほぼ標準語」になっている、と聞いたことがある。実際のフィンランド語は、話している言葉を聞けば、ある程度出身地がわかるぐらい(僕もタンペレ人の聞き分けがつくときがある)、方言がはっきりしているそうだ。つまり「書き言葉」での会話自体、そもそもファンタジーなのだ、とも。

いつの日か、ブラッド・ピットとアンジェリーナ・ジョリーが主人公の「淡々&ファンタジー」な映画を観てみたい。監督はぜひアキ・カウリスマキで。やっぱり無理だろうか。

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