『セッション(Whiplash)』のフレッチャー vs. 『セロ弾きのゴーシュ』の狸の子

この記事は約3分で読めます。
Tampere Finland 2003
Tampere, Finland 2003

去年から、うちの奥さんがマヨネーズを自分で作るようになった。市販のマヨネーズが嫌いな僕のために、というわけではなく、美味しいポテトサラダを食べたいという、彼女の食い意地を出発点とした習慣だ。

自家製マヨネーズのレシピはシンプルだが、最初にうまく乳化しない場合、その後の回復は、ほぼ絶望的という無慈悲な結果をもたらす。今まで4、5回は作ったけれど、うまくいったのは1回目だけ。今回もまた失敗した。フードプロセッサーを過信したのが敗因だろうか。やっぱり手を使って泡立て器で地道にホイップするのがいいのかもしれない。

乳化に失敗した場合は、一旦冷蔵庫に入れて、卵の黄身と油を再分離させるところがポイントだ。分離したら油を取り除き、黄身の部分からホイップし直すのが僕の仕事。「いいぞ!だいぶ固まってきた!」「もっと速く!」と励ましてくれる彼女を傍らに、がむしゃらに泡立て器とボウルでホイップし続けながら、途中でふと、これって、このまえ観た映画『セッション(Whiplash)』みたいだなと思った。

ニューヨークの名門音楽学校で「偉大な」ジャズドラマーを目指すニーマン青年とファナティックな教師フレッチャーとの師弟関係が描かれるこの映画で、バンドの正ドラマーの座を獲得すべく、必死になってドラムを叩くニーマンに向かい、フレッチャーが、「Don’t slowdown」とか「faster!」、「keep playing!」と鼓舞するシーンを思い出した。

「キャラバン」を演奏する主人公をイメージしながら、マヨネーズの材料を必死にホイップし続けた甲斐があったのか、きちんとしたマヨネーズとは少し違うけれど、一応それらしきものができてホッとした。

しかし、ときどき思うのだけれど、アメリカには妙な勤勉さがある。僕のようなあまり勤勉ではない人間からすると、ちょっとどうなんだろうと首をかしげたくなるほどの極端なものを感じる。「真面目」というのとも違う、僕にはよくわからない何か、ピューリタン精神というのか、プロテスタンティズムを前提とした精神や行動様式をアメリカのどこかに感じる。

また、Whiplash という英語の原題から、「ムチで打つ」というようなことを連想する。実際、自分で自分に鞭打つような自虐的で痛そうな出血シーンも多くて、そういうのが苦手な僕としてはいささか閉口した。フレッチャーのキャラクターは映画では一見サディスト的に描かれているけれど、扮するJ・K・シモンズはマゾなんじゃないか、本当は。

対照的に思い出されるのが、宮沢賢治の童話『セロ弾きのゴーシュ』だ。ここでは、ファナティックな師匠ではなく、生意気な三毛猫や、ドレミファを教えてほしいというカッコウ、小太鼓を習いに来る狸の子、病気を治して欲しいという野ねずみたちとの練習から、ゴーシュは音楽を学んでいく。

ところで、僕がドラムを習うなら、フレッチャーよりも、狸の子と一緒に練習したいと思うけれど、ニーマンはどうだろうか。まあ、ニューヨークのエリート学校で、狸の子が先生をすることには問題があるかもしれない。ただし、狸の子も厳しい。

「ゴーシュさんはこの二番目の糸をひくときはきたいに遅れるねえ。なんだかぼくがつまずくようになるよ。」

宮沢賢治『セロ弾きのゴーシュ』

また、カッコウも妥協しない。

「なぜやめたんですか。ぼくらならどんな意気地ないやつでものどから血が出るまでは叫ぶんですよ。」と云いました。

同上

宮沢賢治も厳しい人だったのかもしれない。